
海野 靖彦

はじめに:
この「㈱第一ラジオアイソトープ研究所(以下:DRL)創立40周年を迎えて」の記念冊子が発行されることに対し、心からおめでとうと申し上げます。
加えてこの冊子に掲載させて頂きますことに感謝致しております。私は43歳で二つ目の会社としてDRLに入社して、61歳の誕生日まで17年8ヶ月の間、
千葉工場と本社で過ごさせて頂きました。入社当時を振り返って見ることと致します。
(1)サイクロトロン1号機との出会い 1987年~1989年
一つ目の会社で丁度20年間、レーダーの整備・製造・設計を歩んで来てからの転職でした。DRLへの入社試験として電気工学の基礎知識に関する
ペーパーテストと面接をクリアーすることが出来、昭和62年5月22日から、千葉工場 製造部 第2課での勤務が始まりました。
故宮永課長のもとに居られた勝田、関口、池沢、遠藤、藤井、高橋、佐藤、石田各氏の課員と、NBS社の半沢、林各氏に混じって、
稼動して4年目を迎えたサイクロトロン1号機の運転とメインテナンスの業務に就きました。同時に単身赴任の幕開けとなり、松尾町の独身寮に移住して車通勤となりました。
当時の思い出に深く残っている事を幾つか述べてみます。
勉強会:スウェーデンのスカンジトロニクス社製サイクロトロン1号機は英文のマニュアルだったこともあり、電源装置・コントロール装置・
本体部分・ビームライン・ターゲット照射装置などの原理・構成を理解するために、
宮永課長が翻訳を担当され、各員は分担して勉強会をこまめに開催する一方、毎月月末には試験をして技術力向上に努めていました。
私は試験問題の作成と採点をお手伝いしながら自らもサイクロトロンの理解を深めました。
被 爆 :DRL以前のレーダー技術では経験してなかった被爆について初めて知り、それもサイクロトロンの部位によっては半端な量ではないことも体験しました。
大地震:87年12月17日 11時過ぎ、6号館の地下で木曜日の通常メインテナンスをしていた最中に発生した大地震には肝を冷やされました。
電源装置などを元の位置に戻すのに、車のジャッキが役立ちました。
(2)サイクロトロン2号機の導入とその後 1990年~1995年
・ 出張検査:90年秋にベルギーのIBA社で製作が進んでいたサイクロトロン2号機の工場検査に行き、外部照射タイプの2号機が内部照射タイプの1号機に
比べて構造が単純なことに驚きました。
・被爆分散化:2台になったサイクロトロンを技術課の限られた人数で管理する中で、課員の被ばく線量が他の課より常に多い状態を解消すべく
宮永課長と考え付いたのが、「管理者の方々による高線量部位の作業応援」案でした。作業内容を詳細に分割して1人について秒単位の作業をお願いしたところ、
皆さんお仕事を中断して6号館に見えて、現場では真剣な眼差しで作業して頂きました。今でも続いていると思います。
(3) サイクロを離れて 1996~1997
52歳を迎えた1996年、サイクロトロン一筋の勤務を解かれて生産技術部の部長(宮永さん)付きになりました。
ビボ製品用のSD生産機、ビトロ製品用の充填機、捺印
機、包装機など、様々な機器に触れる機会が増えた時期でした。一方、この頃からパソコンに触れる機会も増えて来て、
文章作りを「一太郎」や「WORD」、表計算を「ロータス123」や「EXCEL」などでトライしていましたが、中でも工場が毎月支払う
電気/水道/ガス等の料金を各課に割り振る計算を従来の手計算からEXCELに置き換えたソフト作り作業が印象に残っています。
施設課の大黒柱であった齋藤さんに計算の仕組みを教えて頂いて作ったのですが、先の創立40周年記念式の日にお会いした花澤さんから
今でも使用されていることを伺い大変嬉しく思いました。
(4)単身赴任生活の思い出 1987年~1997年(工場勤務をした11年間)
・生活拠点:サイクロトロンの仕事は工場近くから通勤すべしということで、松尾町
の独身寮に入れて頂きました。しかしその後 独身寮規程が整備されて、同じく単身赴任をされていた原料課の井上課長と共に独身寮を出て成東町の
民間アパートに移りました。取手市の自宅には両親と小学校低学年以下の子供二人がいたこともあり、
この11年間、毎週末には約60kmを車で往復しました。

2.本社勤務時代 1998年~2004年
本社には自宅から通いました。DRL入社前の42歳までは川崎まで通っていたことを思うとほぼ半分の距離で、約1時間の電車通勤は全く苦になりませんでした。 本社通勤で強く思い出に残っているのは次の3点です。
(1)6C運動
本社勤務は特許グループ2年間、創設された業務監査グループ4年間、総務グループ1年間と様々な経験を積ませて頂きました。 中でもこの7年の間に6C運動の全社発表会に4度も出場出来たことは大変嬉しい思い出です。「パノラマ」、「規程あつめ隊」、「ZOO MEN」、 「石橋を叩いてアサル」といったテーマで発表する準備をしてメンバーとリハーサルを重ねた楽しい経験でした。
(2)次のステップに向けて
定年を過ぎた嘱託としての最後の1年間に、もう少し社会で働きたいと思うようになりました。 DRLを終えてしまってからハローワークで探すよりもっと近道なインターネットで探し始めて2~3ヶ月経った2004年5月ごろ 、シニアーの自分に合いそうな仕事にヒットして、デジカメ顔写真を貼り付けたWORD製の履歴書を送信したところ無事に採用されました。 現在でも、週に4日間 御成門近くに通っています。
(3)お別れ会
DRL勤務も終わりに近づいた2004年7月の金曜日 午後、千葉工場の奥田さん中心に30名近くの懐かしい方々で 成田の日航ホテルで 家内共々のお別れ会を開催して頂きました。感激しっ放しの時を過ごしました。次いで私の誕生日前日である8月20日 丁度金曜日、 本社近くで総務グループの方々を中心に「歓送会」を開いて頂き、酩酊状態で皆様とお別れしました。
DRLは私にとって労働年齢の後半を過ごさせて頂いたところで、千葉工場と本社で多くの方々にお世話になった、大変思い出の多い会社です。 この紙面をお借りして感謝の気持ちをお伝えすると共に、新たな社名の下で益々発展され、更に本誌を通じて懐かしい方々のお声が聴けることを願っています。