Ri りゆうかい -イキイキした退職後の暮らし-

 昭和44年(1969年)入社当時の交遊
                           坂本 澄久

 昭和43年秋、資本自由化後の認可第一号の合弁会社誕生の新聞の募集広告を見ながら「将来何か期待できそうな会社だなあ」と思い応募を決意いたしました。
 当時私は航空自衛隊のパイロットになろうと思い幹部候補生の試験を受けていて、奈良の航空自衛隊の身体検査で最後の最後で血圧が高いと指摘され、 泣く泣くパイロットになる夢を諦めた後のことでした。
 昭和43年冬の入社試験は強く印象に残っています。たくさんの受験者が来ていましたが私の後ろの席に早川さん、その後ろの席に森さんがいて お二人から「どこからきたの」「どこの出身地」と話かけられ、色々お話ししたことが最初の印象深い出会いでした。 東京の住いはびっくりするほど古い第一製薬柳島アパートを会社から紹介され、一時住みましたが近くに診療所を改装した会社の寮が新しくできましたので、 すぐにそちらに移りました。
 当初私一人でさびしい限りでしたが、第一化学から河野さん、倉田さん、松本さんほか大勢移ってきましたので急に賑やかになりました。 みんなで浅草の深夜映画に行ったり、大井競馬場に行ったりして遊んでいました。当時給料は3万円弱でしたが、 今考えるとよくその給料で生活できていたなあと感心しています。 
 会社では大谷さんと二人で新宿歌舞伎町によく飲みに行きました。大谷さんが学生時代から通っていた「かたる」というお店で、マスターの植田さん杉さんが いて生意気盛りの時でしたので、お酒を飲みながら人生論を議論し合ったものです。 その後、あとから入社した後輩も連れて行きましたので歌舞伎町には随分長く通いました。
 新卒一期生として昭和44年4月入社ですが、第一化学からの引き継ぎが遅れ営業開始は6月にずれこんでいました。 その期間の仕事は殆んど毎日車で羽田空港に通関のために通っていました。飛行機の到着遅れ、インボイスの不備、アイソトープ製品の確認等、 通関業者の事務所に昼頃に行って待機して製品を引き取り、夜中の12時頃に会社に帰ってきました。時に朝方製品を引き取ることもありました。 通関業者の建物の近くに昔の東急羽田ホテルがありましたが、緊急的にそこの駐車場で詰め替えてそこから全国に配送したこともありました。(もう時効ですね)


 営業では高野課長の下で新人は3グループに分かれました。右近・坂本(北海道、東北、神奈川、東京)、中沢・大谷(四国、中部、北陸、東京)目崎・東谷(九州、中国、大阪、東京)のペアを組んで営業を開始いたしました。担当も広く、入社直後から無我夢中でとてもハードな勤務でしたが、 その頃勤めていた先輩の皆さんは個性豊かな方々が多く、みんなで将来会社を大きくしたい一心で営業活動に取り組みました。
 私は現在62歳を超え当時同期に入社した方もすでに退職されています。 会社生活から離れ退職後の生活を始めていますが、地元地域で新しく交流関係を作っていくことはとても重要なことです。 しかし今私が思うことは、私たちが会社黎明期に会社の仲間として知り合い、楽しく情熱に燃えて仕事をしたり、遊んでいたりして、 会社とともに成長できたことは、会社生活での苦々しい記憶が誰にでも頭の片隅にあるとしても、私たちの交流は心の奥で大きな思い出という財産に なっていると思っています。
是非ともOB会の活動を通して、昔なつかしい思い出を語り合い、リセットされた新たな交遊をしていきたいと 願っています。
 どうぞOB会にお越しください。お待ちいたしております。

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