Ri りゆうかい -イキイキした退職後の暮らし-

 第一ラジオアイソトープ研究所の印象
                         斎藤 紀男

 私が当研究所に縁があって昭和53年12月に中途入社で入ってきて、驚いた点は工場従業員に若い人が多かったことです。
40歳の私にとって20から30歳台の人達に、うまく溶け込めるか心配が付きませんでした。平均年齢は28歳前後と聞いていましたが、 みんなが昼休みになるとテニス・野球等活発に運動しておりました。福利厚生の一環として愛好クラブが結成されて、野球クラブ、 テニスクラブ、サッカークラブ等数多く、私も遅れて結成された無線クラブに入部し、近隣の各地に趣味と実益を兼ねて車で移動し、 移動無線局を開局して通信を行いました。
 又、年1回の千葉工場大運動会は家族ぐるみで参加ができる唯一の行事で、交流の場として最高の行事ではなかったかと思います。
日頃の体力の限界を忘れてついつい力が入り足がもつれて転倒するハプニングが多々ありました。次の日は足の脛が痛く苦労した人が多かったと思います。
 一方、仕事上では特に印象が残っている点は昭和62年12月17日に発生した千葉東方沖地震ではないでしょうか。
(阪神淡路大震災は偶然にも17日同日)当日午前11時8分頃、突然下から突き上げるような地響きと震動が数秒間続きました。 地震が収まり我に返ってから手分けして機械室の被害状況調査に駆け回ると、あちこちで被害が報告されてきました。
 ボイラー室では蒸気管から蒸気漏れ・ストレージタンクにおいてはタンクのずれと配管が折れ曲り・排気設備関係では10トン前後の 排気チャンバーの移動・排気ダクトの変形等、次々と報告が入り被害件数が増加してゆきました。しかし生産が完全に停止するような重大な 被害はなく、幸いなことはこの地震で停電が発生しなかったためにこの程度で済んだと思います。そしてたまたま3号館改装工事で建設会社の 職人さん達が工事中でおられたことも幸いだったと思います。
 そのため応急処置と仮復旧工事に於いて素早い対応が取れました。 完全復旧には三か月の期間と三千万円から四千万円位の費用が掛かったと記憶しています。この地震の震度は当時の発表では 震度5となっていますが現在のように各地に震度計が設置されていれば震度6弱と推定されるそうです。
 今回原稿を書くに当たり改めて思い出すと懐かしく記憶を呼び戻すことができました。これからも思い出がいつまでも残っていくよう  富士フイルムRIファーマの発展を期待してやみません。
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