
DRL初期の思い出
小川 弘

第一製薬の故石黒社長が、DRL の社長となり、取締役兼外国部長だった故六角 昇さんが、DRLの常務取締役に任命され、実務担当の責任者として、私が選ばれました。第一化学東海研究所で放射性医薬品の仕事をしていた新田さん、黒崎さん、河野さん、矢部さんたちが、DRL に来てくれ、高野さん、中沢さん、西川さんが、第一製薬から来てくれました。皆さん非常に良くできる人たちで、DRLの基礎を築いてくれました。
しかし、その後、第一製薬は、良い社員をDRL にくれませんでしたので、DRLが独自に社員を探して採用しようと云うことになりました。私は、これは大変なことになったと青くなりました。当時は、日本の放射性医薬品のマーケットは、80-90%がダイナボットに占められており、DRL は潰れるかも知れないと言う噂もありましたが、出向者なら第一製薬、第一化学に戻ればいいので、あまり気にしておりませんでした。しかし、DRLが直接採用した場合は、もしDRLが潰れたら、その人たちは帰る場所がないのです。それから私は、土曜も日曜もなくなりました。
高野さんや新田さんをはじめ出向者の皆さんも同じ気持ちで頑張ってくれましたが、私が一番嬉しかったのはDRL が直接採用した皆さんが、“DRL は俺達の会社だ” ”自分達がDRL を立派な会社に育て上げるのだ”と云う意気込みで全力投球してくれて見事に立派な会社にしてくれたことです。本当にご苦労様でした!
DRLがスタートするためには放射性医薬品を製造する施設を持たなければならず、その準備と設計が大変でした。 第一製薬柳島工場の中の一つのビルを借用することになりましたが、管理部門と食堂として使用していた建物ですから、床の耐荷重の問題や天井の高さ制限があって苦労しました。幸い、第一製薬の建築担当の山崎さんたちが献身的な努力をしてくれたおかげで、色々な難関を通り抜けることが出来ました。 しかし、非常に困ったことの一つにホットセルで使うマニピュレーターの件がありました。天井が低くて、当時原子力研究所やアイソトープ協会やマリンクロット社、その他のところで使っているマニピュレーターはすべて使えないのです。日本国内は勿論、欧米の製品を含めて、片っ端から探して、やっとなんとか使える製品を見つけたときは本当にほっとしました。
放射性医薬品は、短寿命RIが中心ですから、一般医薬品のように合理化し、機械化して大量生産して製造原価を下げると言うことは出来ません。結局毎日同じ製品を作ることが多くなり、生産部門の人たちは大変です。結果として、年末は少し早く休みとなりますが、正月早々仕事開始となります。正月三日間は休みたいがなんとかならないかと相談されて本当に心が痛みました。

多くの病院で医師や技師が”うちはダイナボット社と親しくしているから結構です”と云うのを、一生懸命苦労して、やっと受注したのに、その製品が通関出来なかった時の担当者の無念さと悔しさを考えると何とも云えない気持になり、その都度、厳しい文句の手紙をマリンクロット社に出しました。
合弁会社の契約書には”第三者の原因による損害は日米両者で折半するがマリンクロット側のミスで生じた損害はマリンクロット社が支払う“となっていますので、そう云うトラブルが起こる度に私はDRLが発注したテレックス(当時まだFAXがなくて電報かテレックスでした)のコピーとマリンクロット社のインボイスのコピーに、通関時のトラブルとDRLが蒙った被害金額を書いた手紙を同封して、これは明らかにマリンクロット社のミスだからこの金額を支払って欲しいと要求しました。相手が逃げ道のないように書いた手紙なので、かなりの件数は支払ってくれましたが、なにかと言い訳をして支払ってくれないものも残りました。
それらは私が米国核医学会に出席したときにセントルイス市にあるマリンクロット社へ行って、直接談判をして全部支払ってもらいました。少なくとも最初の2年間は、この直談判で受け取った金額で私の米国核医学会出席の費用が出ました。当時、マリンクロット社の中では、”来たら必ず取られるドクター小川の手紙”として有名だったそうです。 研究開発の面でもマリンクロット社の研究陣及び色々の大学の先生方との協力の下で、優れた新製品や特許を出しましたが、あまり長くなってもいけないので、それらは次の機会に述べさせてもらいます。 DRLは、すばらしい会社でした。皆さんほんとうにご苦労様でした。