Ri りゆうかい -イキイキした退職後の暮らし-

 DRLの思い出
                 西川 清敏

 私は、第一製薬(株)から出向し43年創立当初からDRLの創業に係わる経理・総務・業務等の管理業務全般の仕事を担当し、 なかでも日米合弁会社第1号の認可を得たことが新聞に大きく報道されたのが印象的でした。
創立当初は、石黒社長、六角常務、 小川部長初め営業担当として高野さん、工場担当に新田さん、研究開発担当に中沢さん、そして管理担当に私を含め実務担当者は、 総勢6人からスタートいたしました。
 まず、はじめたのが人集めでした。新聞広告をいたしましたところ、当時としては本当に優秀な方々を採用することができました。 現在の会社があるのは、この方々の努力の賜物だと思っています。
 人集めが終わると今度は、私は当時100%子会社の第一化学のアイソトープ部門をDRLへの移管業務をやり、人事制度、原価計算精度、 決算書の作成等毎日本当に忙しく夢中でしたが、めったにこんな経験をすることはできないことだと思って頑張りました。
そして、当時工場は第一製薬の柳島工場の一角に間借りしていましたが、業績の著しいのびで、新工場を建てることになり、 土地買収から始まり工場建設まで苦労しましたが本当に、思い切り仕事をやらせて頂きました。
 特に思い出に残っているのは、いまの松尾工場の用地の買収作業でした。当時は、日本では、アイソトープと聞くだけで核アレルギーがあり、 地元の方々にその安全性を納得していただくのが大変でしたが当時の高橋町長(故人)や、地主の八角文雄さん(千葉大学の理工学部出身) の方々がよく理解していただいたのが幸いでした。そして土地の斡旋していただいた、宮下さん(現在も山武郡で不動産業を営む)の働きも 忘れることができません。
 会社でも、何でも事を始めるときは、事業が時代に適合し、適材適所に人を得なければなかなか うまくゆきませんが、DRLの場合は本当に全てに恵まれ運が良かったので、ここまで続いてこられたのではないかと思います。
それから13年間在籍し業績も順調に推移し、本当はDRLに何時までもいたかったのですが、そうもいかず昭和56年に親会社の第一製薬へ 戻りました。
 一つの会社で40年間も続くことは至難のことで、これからも新生富士フイルムRIファーマ(株) として永続することを期待しております。
 本当に思い出深い充実した13年間でした。ありがとうございました。
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