
DRLの思い出 工場移転
黒崎 浩巳

DRL創業の昭和43年から32年間勤務してきた永い間には、悲喜こもごも沢山の思い出がありますが、
最も強く印象に残っていることは、東京から千葉への工場移転です。昭和44年、第一製薬柳島工場内の3階建てビルの2階半分
を借用して東京工場での生産が始まり、急速な右肩上がりの売り上げに追いつくために次第に借用スペースが広がって、
とうとう3階奥の食堂部分が残るだけになってしまいました。
その前から工場移転が検討されていて、土地探しが始まっていました。当時の松尾町下大蔵に落ち着いた頃か、近くの部落の
人達に当社の仕事内容を理解してもらおうと工場見学がありました。
一方、新工場をどのように設計していくかの検討が、通常の業務終了後、工場の関係者が上野駅近くの京成ホテルの会議室で
夜遅くまで何日も討議を重ねました。途中から第一製薬の建築担当の山崎さんに加わっていただき、建設会社の入札も行われ、
最終的に清水建設にお願いすることになりました。
清水建設が持参するアンモニアの臭いがする分厚い青い図面を見ながら、細かい設計を進めていきました。平面図、給排気・給排水・
電気配線図など初めて経験するものばかりでしたが、清水建設の担当者と話し合いをしながら設計を詰めていきました。
このころからGMPなるものが業界自主基準として具体的になってきたために、この基準を考慮した工場設計が求められてきて、
そのための勉強が必要になりました。しかし、ここで問題になってきたことは、我々の取り扱う放射性物質の放射線管理と
GMPの清潔な環境条件を維持管理するという両方の相反する条件をいかにして満足させていくかでした。作業室内外の差圧、
副室、ドラフトチャンバーの工夫などをしながら解決していきました。ここでの清水建設と当社の熟考の賜物か、千葉工場の
施設設備がその後の科学技術庁や薬事の立ち入り検査でもかなりの永い間改造しないで済みました。
並行して、新設工場の許認可を千葉県庁担当課の了解を得るために、本社の森さんと何度も県庁を訪問しました。
担当官に放射性医薬品、放射線管理、GMPなどについて理解してもらうために何度も説明が必要でした。てこずったのは、
生産を切らさないで如何に東京から千葉へ工場移転をするかでした。

GMPが法制化され、特にバリデーションの必要性がある昨今では、こんな悠長な生産移転が許可されることは到底ありえませんが、 当社の工場移転が、GMP開始の初期の頃であったことが当社にとって恵まれた移転のタイミングであったと言えましょう。
さて、工場移転の実際の作業ですが、これもまた極めて大変な作業でした。新設設備は、工場建屋の建設に合わせて搬入据付すれば いいのですが、問題は、東京工場で使っている設備器具を千葉工場へ移動後直ぐに製造に使用しなければならない作業です。 そのため、数ヶ月のスパンで毎週の生産に支障が生じないように順次移動していく計画を立てねばなりません。それも 移動が一度に集中しないように、トラックや作業員の関係から設備の大きさと数を平均化して搬送する必要がありました。 この計画は、最後は一日ごとに搬出入設備の詳細なリストを作り、 日本通運の責任者と事前に十分話し合い、トラックの台数と日通の作業員数と当社の作業員数を考慮して、搬出・搬入手順を考えました。 計画はできるだけ詳細に立てましたが、それでも前日になって急に予定が変更になることもあって、毎夕日通の担当者と連絡を取り確認をしました。
ところで、東京工場の生産が千葉工場で順調に継続できたことの要因の一つとして特にインビトロ製品の製造に携わっていた 嘱託の方々の努力があったことを忘れることができません。東京で生産を手助けしてくれた嘱託者の作業が千葉でもスムーズに 継続していくために、新工場の建設中、部分的に完成していた包装課の事務室で地元の嘱託者の面接試験をして採用しました。 大変だったのは、その方々に東京工場まで一ヶ月間勉強に通ってもらったことです。嘱託者にとって、松尾や成東駅から錦糸町駅 まで初めて経験するラッシュアワーの電車に長時間乗って通勤してもらいましたが、これは並大抵のものでは無かったと後 でしみじみ聞かされました。今は皆さん定年退職されましたが、今でも当時の努力に感謝しています。
このようにして、千葉工場の竣工式が済み、生産活動が順調に進んでいくのを確認して安心しました。今にして思うに、 DRLにとって大イベントであった新工場の建設と移転作業が無事終了したことに対して、関係者全員の方々の努力と協力に心から感謝いたします。