Ri りゆうかい -イキイキした退職後の暮らし-

 会社での思い出
                  木谷 諭

 第一ラジオアイソトープ研究所に入社したのは昭和49年で、プロ野球の長嶋選手が現役最後の年だったと思う。 何か時代が変わりつつあるような漠然とした感じがあった。
 オイルショックの影響で、その年の新入社員の初任給が随分上がり、会社とはいいところだと思った記憶がある。
その頃は全社員をあわせても百名に届かない規模で、本社は第一製薬ビルの7階に間借りしており、私はそこでの最後の新入社員であった。 日本の経済も会社の業績も順調に伸びている頃で、自由でのびのび仕事をさせてもらえたのが、とてもよかったと思っている。 総務・人事、契約・法務、秘書、経営企画などいくつかの仕事をさせてもらったが、一番困ったのは予算関係の仕事が回ってきたときであった。 予算会議や予算編成のおりに各部署から上がってくる数字を手仕事で纏めて資料作りしていたものを、効率化のために 予算管理・予算編成システムとして電算化しようということになり、私の担当になった。
 文科出身の私は会社会計の仕組みがトンと分かっていなかった。何から何まで一からの勉強となったが、それをシステム化するには これまた違う勉強が必要で、とても私に出来るとは思われなかった。夜は悪夢にうなされるし、休日は神社に行って神頼みを何回も行った。 一年の準備期限が来て、システムの稼働の日に、きれいに間違いのない数字が打ち上がって来た時の感激は今でも忘れられない。 いろんな人達に助けてもらえたことを心から感謝している。

  その後、契約や法務の仕事で会社業績に直結するような成果もあげることができたが、私の中では予算関連のシステム化の仕事が一番の思い出として残っている。 システムはその後改良を加えられ現在も使われているようなのがとても嬉しい。
 会社は数年前に第一製薬を離れ、富士フイルムの傘下に入ったが現在の世界的不況の中でも比較的安定した業績を維持しているとのことで大慶に感じている。 今後一層の飛躍を期待したい。
 一つだけ会社にお願いがある。私は健康上の理由もあり二年前に自己都合退職したが、人生の過半を送った会社 のことを今でも強く意識している。昨年創立40周年の式典があり、懇親会には退職者にも招待状が送られたそうである。 また、社内報が出ると退職者にも送っていると聞いている。私のところにはどちらも送られてこない。いったいどんな理由によるものなのか。 自己都合退職者は除くことにしてあるとすれば、あまりにも機械的な判断ではないか。もう少し良識のある判断をしてくれるよう切に願っている。
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