Ri りゆうかい -イキイキした退職後の暮らし-

 DRLの想い出
              伊藤 隆之

 私がDRLにお世話になっていたのは、1971年(昭和46年)4月から2006年(平成18年)3月までの丁度35年間でした。つまり、学校を卒業して就職したのがDRLでしたし、定年退職したのがDRLでした。現在、私は年金生活ですが、私の年金記録は極めて簡単です。DRLのみだからです。最近聞いた話なのですが、DRLとして採用されてDRLとして定年退職したのは、私一人だけだそうです。
 DRLの想い出はいろいろありますが、大きく分けて、入社してから15年間在籍した製造部門の時代、そして6年間在籍した工場の管理部門の時代、そして本社の管理部門での12年間、そして工場に戻っての2年間でした。
 製造部門の想い出が一番多いですが、やはり最大は昭和53年の墨田工場から現工場への移転でした。当時、課長代理になったばかりの私は、現場責任者の一人として大変でした。何しろ生産・出荷を全く止めないで移転するわけですから。それでも移転が終わって、工場の事務所から眺めた池の周囲の景観のすばらしさを今でも思い出します。また、アドステロールの開発に関与し、標識や原料の化学合成を行ったことも記憶に残っています。
 製造部門から工場の管理部門に移ったのは、私にとっては青天の霹靂でした。環境管理はあるかなとは思っていましたが、工場の総務部門をまかされたのは驚きでした。当時はパソコンが出始めたばかりで、パソコンを使って業務の改善に取り組んだのが、今でもパソコンを使える原点だった気がします。この時の最大の想い出は昭和から平成への変化でした。年号の変更への対応は工場としては結構大変でした。
 本社への転勤はそれほど驚きませんでしたが、電車に乗って毎日東京へ通うのは初めての経験で大変でした。丁度、本社が徳力ビルから現在のビルに移転する直前での異動でしたが、それ以後、本社・大野ビル・各支店の移転や拡張、家賃の値下げ交渉(バブルの後だったので)とビルオーナーとの交渉が大変でした。本社総務部門での最大の想い出は創立25周年と30周年の記念式典を担当したことでした。25周年は芝のグリンピア、30周年は東京国際フォーラムでの式典でした。今思えば、DRLが一番輝いていたのはこの頃だったのかなと思います。
 60才が近づいた時に、退職金や年金を計算したところ、贅沢しなければ何とかなると思ったので思い切って定年退職することとしました。まだ元気だから仕事をしたいという人が多い時代ですが、元気なうちに仕事をやめて、好きなことやボランティアにせいを出したいと思ったからです。
 現在は、会社のときから始めていたウオーキングにはまっています。「ちば歩こう会」や「千葉県ウオーキング協会」の役員として行事の企画・運営をしたり、仲間と歩いたり飲んだりすることはボランティアと趣味と健康を兼ねてとても楽しいことです。皆さんも興味があれば、上記ホームページをご覧ください。今後も元気なうちは続けたいと思っています。

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