
創立40周年を迎えて
井上 照夫

東大原子核研究所で仕事中、小川さんからの電話で、急遽、入社が決まった。
まだ千葉工場に通勤可能な家が決まらないまま、
放射性医薬品の製造見学のためセントルイス~サンフランシスコに出張した。それは、初めての放射性医薬品製造の研修で強烈な印象を受けた。
その出張はDRLの偉いさんと一緒のため、相手方も気を使われ、頻繁にパ-テに誘われ、翌日は完全な二日酔い状態になり
本来の研修よりこちらの方が大変だった。これまでの研究所生活と全く違った環境の中で、色々な人達と働く事ができ、
貴重な経験をさせて貰い有難たかった。
RIのルーチン製造に必要な濃縮同位体の使用量・陽子線ビ-ム強度に驚かされた。セントルイスとサンフランシスコ両施設の製造法
(化学分離法)には多少の差はあるが、私は両者のスキ-ムの良いところを組み合わせ、DRLでの製造法を考えながら
見習い作業に従事していた事を今でも覚えている。
アメリカでの研修が終わり、千葉工場に戻りRI製造に必要な施設や装置の設置作業が始まったが、これまでの大学の研究所生活と製造会社では、
人を含め環境が大きく異なり、40歳からの転職の大変さを実感させられた。RIの生産法は、理解していたが、“医薬品”に使う
RI生産と云うことで当初、戸惑いもあった。最終的には、201Tlと67Gaを計画どおりに製造・出荷でき、まずは、小川さんとの約束が
果たせた。
ゼロから始めたRI製造グル-プが201Tl,67Gaのルーチン製造、放射能測定技術、を習得し自立した頃、123Iの生産計画があり、
その生産装置の設置、製造に携わった。123Iの製造法は、201Tl、67Gaと大きく異なり現在の123Iの製造法にたどり着くまでには
色々な方法が試みられた。
定年までの5年間は、本社に移り主にPET(18FDG)の供給ビジネスの立ち上げに多くの時間を費やした。
また、超偏極高感度MRI(スピンの向きを揃え、S/Nを上げる)、新薬開発のリスクを下げ効率よく研究・開発を進める為の一つの道具である
AMS(Accelerator Mass Spectrometry)による事業化を考え、あちこちの施設の見学や担当者との会議を持ったが、結果的には不成功に終わり、
企業での仕事の難しさを改めて感じた。本社で実質的な仕事に結びつかなかった事が大変心残りになっている。
RI製造の立場から極々狭い範囲でRI核種の診断、加速器による治療動向を見ていた。入社以来10数年の間に18FDGの供給、
病院内でのPET製剤の製造が開始された。治療分野では重粒子の特徴を生かした大掛かりな癌治療施設など、入社当時到底考えられ
なかった事がビジネスとなっている。これはコンピュ-タの進歩や社会情勢の変化も大きく影響していると思われる。
DRLを退職後、IBAの日本代理店、(株)SCETI(セテイ)で10Bと加速器による中性子との核反応を利用した細胞レベルでの
癌治療に関するコンサルタントをしている。これまでビジネスとしてIBA-Methods(旧市谷TRS)、NEDOグル-プらが試みたが
全て挫折状態にある。現在、唯一進められている住友重機と京大グル-プのプロジェクトは今年の夏ごろまでには結果が出るだろうか?